2010年9月
  
<9月24日>

【肩書きが増えました】

まず、始めに伝えたいことは、ぼくは自分が「happyneet(楽しく生きて、お金も生み出す)であるか?」を、とても大事にしているようだ、ということです(生まれつきの症状のことで自分自身でも把握できていない部分があります)。

なので、ぼくは、人生で意思決定や判断をする時、「これからすることはhappyneetであるか?happyneetの理念に則っているか?」を意識しています。


楽しい。おまけで、お金も生み出せたらいいね。


こういう感覚なので「楽しければ基本的に無料で取り組むこと」が大事になります。(お金のやり取りが0であっても、それをするか?)という自問に「YES!」という自答がスッと出たら、行動を開始しています。お金が先に立つと、本末転倒です。

何が楽しいかは、人それぞれ、その人のパーソナリティです。

ぼくは、どうやら、自由意志で自発的に文章を書くことやタイプすることを楽しいと感じるタイプのようで、自分に自然なまま流れに任せて生きていたら、happyneetでありながら、さらに、肩書きが増えることになりました。


【新しく加わった肩書き】

「フリーのライター」


フリーライターとは、違います。フリーライターには既に言葉の持つ枠組みが出来上がってて「フリーライターなんだから、それはやってもらわないとぉ〜」のような会話が見えます。それはゴメンこうむりたい。

フリーには、いろいろな意味があります。ライターは、書く人という意味です。
フリーの意味の、ほとんど全てが、ぼくに当てはまります(「タダ・自由・気まま・組織に属していない・野に放たれている感じ、などなど」)。

フリーのライター、ぶっちゃけて言えば、タダの書く人です。人とやり取りする時に、得意の屁理屈で、何とでも切り返せそうな感じがしています。一見、職業っぽくも見える名前で、実は職業じゃない。でも、職業かもしれない。ただ、ウソはついていない。

フリーのライター。今後のぼくの人生で肩書きが必要な場面に使おうと思っています。何とも便利な肩書きです。

ぼくに肩書きが増えました、という、お話でした。



  
  
<9月23日>

【仕事しているのか、していないのか】

楽しく生きて、お金も生み出す。

今のぼくを形作る一つの理念として確かに存在している。

お金が入る形での作業と言うか何というか、やっているんだけど、別件で、お金の入らない作業もやっている。


考えずに、忘れられる。


ぐぅぅぅっとノメり込む生まれながらの性質で、お金の入らない作業をやっている時は、深く考えがちな時間からの解放されていたりもする。「やらされる」ではなく「納得して解答した条件内で、納期までに提出する」状態で「やりたい時に始められて、終わりたい時に終わることができる」つってもキリが良いところまでという、ある種の「0」「1」が発動しているんだけど。

パターン化された作業をやっていると、頭がボーっとしてくる。ずーっとユーロビートの世界にいるみたいな感覚になる。

お金を貰うタイプ、お金を貰わないタイプ。

どちらの作業も、自分自身の「生活できる以上の金銭に頓着がない(周囲の意見)」が働いてか、同じような感覚で取り組んでいる。感覚的に、仕事しているのか、していないのか、分からない。楽しく生きている感は、ある。楽しく生きているし、充実して生きている。そんな感じ。でも、仕事しているのか、していないのか、分からない。生活が、いよいよhappyneet化してきたか、といった昨今。



  
  
<9月18日>

【抜け出せない現状、継続】

えっと、そういうことです(でした、か。後日談だから)。


  
  
<9月17日>

【抜け出せない現状】

問題解決が済んでなくて、抜け出せない状況、発動。
ほんとねぇ〜、本人すら(メンドクセェな、おれ)と思う症状って、一体、何なのよ!?治す方法は存在しないってんだから、解決する方法を選択する。で、問題が解決してないから、動けない。問題を解決するために活動するために、その場を離れられない。Waoh!



  
  
<9月16日>

【また軋轢が】

身近とまで行くか分からないけど、一年ぶりくらいに腰を据えて話したら、ひしめき合う軋轢コミュニケーションになった。症状が分かって、大分、人に伝えやすくなったけど、やっぱりおれは、あんまり直接的に人と関わらない方が、双方にとって幸せなんだと、改めて、分かった。

人と仲良くしたいんだけど。良識ある人とは仲良くできているみたいなんだけど。それも、よく分かんないや。



  
  
<9月13日>

【自然な形になっていた】

久しぶりに会った人が、自然な形になっていた。イメージと見た目・やり取りとの差が少ない、そんな形になっていた。ほっとした。



  
  
<9月11日>

【脳の使い方が似ている】

「企画を生む」のと「自分自身を納得させた状態で最適解を見つける」のって、脳の使い方が似ていると感じた。

どちらも(もうちょっとスッキリ行かないかなぁ〜)っていう心の問題を解決する方法の提案だからだと思う。

おれの場合は「生まれながらにメンドクサイ」ので「これこれこういう条件化での最適解を探す」って脳が動いているみたいで、それはすなわち、「企画を生む」際の脳の使い方と類似しているのだろうと、感覚的に、分かる。

自分自身のメンドクササを納得させるために(あーでもない、こーでもない、では、どーだ?)とアレコレ考えること、および、新たな視点の発見(視点を見つけると「アラ!??」ってくらいスッキリ解決できることがある)など、「自閉症状を持って生まれた自分自身に真っ当に真っ向から正直に生きる」ことが「企画脳」に直結していることが、今、書きながら、分かった。

さぁーて、happyneetしてくるかなー!(お、happyneetって概念を動詞的に用いる使い方、アリかも!)



  
  
<9月10日>

【いろいろ動いた】

友だちに頼まれていた品物の手配。
部屋の片付けも兼ねた不要物の売却。
不要物の売却益を元に友だちに同種の品を提供。
その合間に炊事・洗濯など。

並列作業に不得手な人間としては、いろいろ動いた。



  
  
<9月9日>

【休日みたいだった】

脳の中が晴れ晴れしていて自発的に外に出て、まるで、休日みたいだった(と、毎日がエブリデイなニートが申しております)。



  
  
<9月8日>

【丸刈り芝生】


五厘刈りのアオ色頭が黒くなって芝生のような手触り。我が毛ながら気持ち良い。



  
  
<9月7日>

【台風の風】


台風の風、体が覚えている。



  
  
<9月5日>

【日常回復】


6月に病気して異常状態に突入していた日常に回復の兆しが見えてきた。



  
  
<9月3日>

【前頭葉で感じる】

ぼくにはコミュニケーションをとっていて前頭葉に鈍痛が続くタイプの人がいる。別に使わなくてもいいのに、ネガティヴな言葉を、さも、ぼくに押し付けるように使ってくる人だ。そういう人とコミュニケーションをとると前頭葉内部に鈍痛が続く。長いこと継続して付き合っていく人かどうか判断材料に使えて、ありがたいことでもある。

今回、前頭葉で感じた鈍痛は特に問題なかったのだが、対象が「幼少時代から今まで付き合いのある人」という点だった。たまーに、その場限りで起きる前頭葉で感じる鈍痛なら、特に問題ない。鈍痛が日常的に継続されることが、問題なのだ。幸い、その人から距離を置くことは可能なので、普段は距離を置いて対処と言うか解決を図っている。

ぼくの少年・青年時代に「誰にも言えない固有の苦しさ」を抱え続けていたことの理由の一つが、この日、分かった。



  
  
<9月2日>

【交通事故の現場に立ち会った】

第三者として警察に情報を伝え終えて、今、10分後くらい。

ネタ体質なのか何なのか、こういうことを引き寄せる、もしくは、そういう場面に吸い寄せられるみたいで、今回も、そんな感じ。メンドクサイ特性を持った人間がメンドクサイ事柄に自ら介入するのは、さらにメンドクサイ事態を引き起こす可能性が、まま、ある。
だけど、自分がいることで誰かの命が助かったり、手当てが早くなったりするならと想うと、時間があったら、ついつい首を突っ込んでしまう。今回は、第三者としてグッジョブしたと思う。

多面体的な交差点での話。

車が信号ギリギリで交差点に進入してきて(ギリやなー知らん!)と目の前の信号が青に切り替わったので、おれはおれで直進開始。

ガシャァーン!

音のした左後方へ目を配ると、接触したのか巻き込まれたのか、自転車と尻餅をついている女性が1人。

(こりゃ巻き込まれてて足やられてたら大変だなぁ)と思い、単車を歩道に入れて、現場へと移動した。

幸い自転車に乗っていた女の人に足は正常に付いているようだったので(次は救急車と警察の手配だな)と考え行動した。やはり、ぼくはパターン化されている事柄には強いようだ。

車の運転手は女性で、さらにセーラー服を着た女子高生が1人いた。
(この女子高生、事故を喰らった自転車の人の友だちかな?)などと思いながら、当事者らしきキャリアウーマンみたいな人に話しかけた。

車の運転手である女性はオロオロしていて「何すればいいですか?」と初対面のぼくに聞いてきた。(相当テンパってるんだろうな)と思い「人命やケガなどを優先するなら救急車、事故現場のことを伝えるなら警察へ電話です。示談にするなら呼ばない判断ですが、ぼくとしては救急車を呼んだ方がいいと思います」のように答えた。

自転車に乗っていた人は、見た目は無傷に見えた。「救急車とか、そんな大事に…」みたいな受け答えをされていたが(後発するパターンがあるからなぁ〜。あと後々揉め事なる可能性もあるから、たとえ外傷などがなくても救急車と警察は呼んだ方がいいな)「後になってどーのこうのなるより、救急車も警察も呼んだ方がいいと思います」みたいに答えた。

車を運転されていた人は、良識者の風合いがあり、電話先に、自分の非も含め、伝えていた。信号機は人の判断を焦らせる場面がある。今回、そんな風だった…といえるのは、被害者側が軽症で済んでいるようであるからだ。

車の運転手、自転車の運転手、女子高生、それぞれの会話を聞いていると(あぁ、車を運転していたキャリアウーマンみたいな人が女子高生の母親なんだな。で、娘である女子高生の人が車の助手席に座っていた)と、事実との差異が分かってきた。

三人の女性に「第三者として警察に当時の現場の状況を伝えるところまで、します」こう伝えて、救急車と警察を、待った。

やがて救急車が来て、担架が降ろされた。
自転車に乗っていた女性は「そんな、大丈夫ですから」みたいに伝えていた。救急車に乗ってきた人は「後になって、足が腫れたりなど、症状が出る場合がありますので」と伝えていた。

さらにパトカーがやってきた。
警察が当事者に一通り聞いた後「第三者で現場を見ていた人間なんですけど、何かあればと思って…」と警察官に言ったところ、住所・氏名・電話番号の確認を求められた。なので免許証を渡した。

「後になって当事者同士の意見が食い違った場合に、連絡差し上げるかもしれません」とのことだった。携帯電話を持っていないぼくは、警察から携帯電話を借りて家に電話し、事の顛末を伝えた。

現場に居合わせた第三者として、やること・やれることが一しきり終わったと判断したので、当事者に移動する旨を伝えようとしたら、当事者二名と救急隊員と警察官で事故当時のことを話しているみたいだったので「第三者として、ぼくにできること終わったみたいなんで移動します。そう、お伝えください」と車を運転していた人の娘さんである女子高生の人に一声掛けて、その場から去った。

(他人事だったから、迅速に冷静に事務的に対応できたなぁ)と、今、振り返っている。



  
  
<9月1日>

【8月のつぶやき、まとめ】

大量発汗。夏だなぁ。

努力の根底には本人の意思が、苦労の根底には他者への服従が、それぞれあると思う。

人生の転換期っぽい気配。

「頑張れ」について別視点から見えたおかげで「悔いの残らないように活動する」って視点が浮かんだ。

鬱の時に「頑張れ」言われて(今まさに頑張ってんじゃん!おれ、呼吸して、キチンと生きてんじゃん!!これ以上、今のおれに「悔いの残らないように活動」を求めるって、どういこと!?これ以上ストレス掛かったら破裂しちまうんだよ!だから、息を潜めて、ゆっくりしっかり呼吸してるんだよ!)、か。

「頑張れ」を「悔いの残らないように活動する」ってすると(誰にとって?誰が判断する?)というカッコ書きで紐解ける。「(自分自身)悔いの残らないように活動する」なのか「(頑張れといった側に判断および決定権がある形で)悔いの残らないように活動する」なのか。

「頑張れ」言った方が怒声まじりで突っかかってくる理由も「悔いの残らないように活動する」の前のカッコ書きが「(「頑張れ」といった人間にとって見える形、また、理解・共感できる形で)悔いの残らないように活動する」だったら理解できる。

「ゆっくりしっかりと呼吸する」が言われた側にとって「今、悔いの残らないように活動する最善の案」だった場合、言った側にとって言われた側の見た目が健康のように映ると、言った側「基準・判断」で「頑張ってるかどうか」が決まるのか。言った側は他人の意思を決定するほどの存在なのか?神??

当人にとって「できうる限りの最善を尽くしている」状態で、さらに「頑張れ」と言われると、そりゃぁ、たまったもんじゃないわな。時を置いて理解できる、あの時の、感情。

朝だなぁ〜。生活の時間帯が、また、ズレた。まぁ、いいや。

2と3。ニートさん。

キレイなのって、たいがい、シンプルなんだよなぁ。

つれづれなるままに。兼好法師。

王か乞食か世捨て人。それか、子ども。あるいは仙人。

自分にとっての自然な形が、他人にとっての歪な形になることは、きっと、これから先の人生も、変わらないまま、自分の中に鎮座し続けるんだろうな。人と触れ合うことが無ければ、歪であっても、問題ないんだよな。そこが、かなしいところなんだな。

なんなんだろうな、この、泣きたくなる気持ち。どこからやってくるんだろう?生まれつきの症状から、やってくるのかな。

この気持ちになる原因、探り当てたいな。

どうしようもない、から、どうしようもない。その、どうしようもない現実に、泣きたくなるのだろうか。

「身を美しく」を繋げて「躾」。躾されたら機能美を手に入れられる。ユニークさは強制される。

生まれ持って、思考が、変。思考が変なのが、行動が変につながる。本人にとっては自然なんだけど、周りから見ると、変。本人にとっては自然なんだけどな。

「0」「1」の判断材料と、場数(経験)があると、「変」な行動を自然に抑制できる知能はあるみたい。「まれに」か「たまに」か「しばしば」か、頻度は分からないけれど、変を抑制できる知能があっても、自然と変は漏れて出る。

「変(から生じる結果も含む)」を受け取った側にとって「都合が良い」なら賞賛、「都合が悪い」なら叱責、それぞれのラインに乗るわけか。

あー。だから「全体の見通しが良いことを好む」のかもしれないな。より正確に伝えると「見通しが悪い事柄を極度に突っぱねる(思考や気持ちや気分や行動)」。

で、「人に合わせる」という行為が「人に支配される(もしくは人を支配する:人に合わせてやる。注:極力控えている)」という気分に直結しやすい特徴があるので、困難なのか。

「人に合わせる≒人に組み敷かれる」気分的に、こんなところがある。

自分が自分でいて、相手も相手でいて、それでいて、自然。

どこから来ているのか分からない「この、泣きたくなる気持ち」。探り当てる前に、心が消化・吸収しちゃったみたい。搾りかすみたいな気持ちは、残ってるけど。

30分ほど前に感じた「この、泣きたくなる気持ち」を「解決しないまま次に持ち越し」ちゃったから、またどこかで、浮き出てくるんだろうな。その時も、自分にとっての自然な形が周りにとっての歪な形で現れて、叱責ラインに乗った言動が生まれるのかな。

「治療方法は無い」って言うんだから、あるものを、探す。「解決方法はある」。解決方法を導き出すには、まず、原因を見つけること。原因を見つけて、対処策を生み出す。生み出した対処策で、類似する案件に、臨む。

発的な気持ち。自分に自然な形。それらを抑えつけられると、生きているから、遠ざかる。

ぼくの人生、近未来の、命題が見つかった。「命題:自分に自然な形を保ちつつ、周りにも自然な形になる解決方法を探す」。

シンプルな数式のように、分かり易そうで、すごく深い人になりたい。

表に出る、つまり、視覚的に見える部分はシンプルで、脳みそを使って見る部分は、深く練られている。そんな人。

E=mc^2

1+1=2

「E=mc^2」 も「1+1=2」 も、どちらも見た目はシンプル。同じ「分かり易さ」でも「直感での伝わり易さ」と「安直」ってくらい差がありそうだ。

突き抜けたい。ズギュゥゥゥゥン!と突き抜けたい。

自分のどうしようもない部分で、ほんと、困ってる。「治療方法が無い」ってんだから、それを「どうしようもない」って書いてもいいだろ!?症状が張っている時は、いつにも増して、やたらと脳内指摘が増える。それも、困る。

どうしようもない症状に泣く日々から解放されたいな。治療方法は無いんだってさ(そうらしいねー)。あーらら、どうしましょ。

スクラップ!&スクラップ!

KIYOMI’s寺(清美さん、国宝か)。

「距離」という道具を上手く使えるようになると、人生が軽やかに回り始める。

「すばらしい広告表現はウソをついてない」という事実を知って「すばらしい広告表現」のことは好きになった。

「ウソをつかない」と「本当のことを言う」は、似ているようで、違う。

視点を見つけることで「ウソではない」方向性が増えるので、結果、視点をたくさん持っている人の方が「ウソをついてはいない表現」の幅が、広がる。それは、きっと、知性に通じる。

プライドと自意識を抑えられる精神力だったり自分よりも大事な上位の存在が欲しい。

たとえ投資した結果が0でも、スカッとした気持ちになる努力をしたい。

鯉は滝を登り五月に空を泳ぐ。

(鯛が空を泳ぐには、どうしたら自然だろうか?)と、端午の節句の鯉のぼりを思い浮かべてみる。

一人でいることの寂しさが、心地良い。集団での賑やかさは、稀で充分。昔で言うところの、ケの日とハレの日くらいの割合が、ちょーど良い。

酒を控えて、腹、控えめに。

ぼくにとっての自然な形が、ひとにとっての歪な形になっちゃうのが、どーにもなぁ。

今よりマシにする。

抑えきれない涙が溢れる度に作品は進んでいく。まったく皮肉なもんだ。

いい秋がやってきますように。








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